昭和44年05月09日 夜の御理解
神様の前には忠実であっても、人の前で忠実でない人がある。人の前では忠実であっても、神様の前に不忠実な人がある。それをハッキリ区別するという事は出来ないにしましても、それが、どちらかが強いというのがございますですね。まあ、合楽でおかげを受けておる方達の場合は、その、神様の前には非常に忠実である。けれども、この人の前ではあの、不忠実であるというのが多いようですね。
まあ、どっちがええの悪いのって訳ないですけれども、結局、信心のない人達の場合なんかは、その、もちろん神様の前には不忠実である。いわゆる人が見よらなかったら、聞いていなかったらといったような、その、が強いようです。けれどもやっぱ信心をさせて頂いておりますと、そこはやはり、ね、神様の前にはやはり忠実。例えて、この人が、私が前にこげんな信心しても、本当に素晴らしい信心する人がおかげ頂けんはずないと思う人がいくらもあるんですよ。
ところが、実際は、その家に帰ってからそれが裏腹のような人がある訳ですね、言うなら。なるほど、それを聞いてから、なるほど、それじゃおかげは受けられんなと、こう思うんです。だから信心とはその、どちらもが、やはりあの、忠実であるというところに、いわゆる実意丁寧神信心という事が言われるのじゃないかと、こう思うんです。今日中学校の家庭訪問がございました。
まあ、最後の子供の中にも、栄四郎がもう、中学が」最後でございますが。ここの合楽の先生で、田島という先生が、まあ有名な先生がおられます、お父さんの時代から。兄弟が全部あの、教員になっておられましてね。その、先生のお世話になってるそうですが。非常に厳しくて良い先生らしいですね。ですから、もう言う事聞かなかったら、叩いてでも本当な事を分からせるといったような、まあタイプの厳しい先生ですから、まあそういう先生に付いておるという事は有り難いと私は思うんですが。
あの栄四郎なんかの事を聞いとってですね、私の前ではあんなに言うならば良い子であるのに、学校ではどうして先生が言われる様に、良い子がしておれんのであろうかとこう思うんですよ結局思うのにですね、是は私共の小学校からまあ高等小学校を出ておる訳ですけれども。その何人も変わられた先生の中にですね、やはり軽う見る見とる先生と、もうその先生に一つの憧念心を燃やすという先生とやっぱある訳ですよ。私共小学校の時はともかくでしたけども。
高等小学校に入りましてからなんかは、もう2年間担当して下さった先生なんかにはもう、本当に傾倒しきってる。もう先生の言われる事は神様の言われる事のように、そのしておりますから、先生もそれだけ帰依して下さる。だからおかげで勉強も高等小学校に入って、グッとその、おかげを頂いておる訳です私共。だか結局私はそ言う事を聞かんとか、どうかて先生方言われるけれども自分自身がね。
いわゆる子供に、その憧念心を起こさせるほどのものを、持っていないという事ですよ。やっぱり軽く見られておられる訳です先生が。ね、ですからその先生の、言う事を聞かん訳なんです。まあ私のあの、栄四郎なんか素晴らしいんです。聞いとって不思議なくらいです。ここで私は何も言わんのだけれども、私の言う事を、まあ言うならばその、言わんでもそれに添うて行きよるのに、学校だけではどうしてそんなに、その言う事を聞かんのであろうかと。まあこれはそこで、ここで分からせて頂くことはね。
本当にあの教会での生活と言うか、まあ親先生に対するその、信心と言った様なものが子供なりにも出けておるんですけれども、学校では先生方を軽う見ておるという訳なんでしょうが、そこんところをですね、やはり軽う見らんで矢張りそれをその、まあ先生方の言う事も聞いて行くという、そして家でもそうであるという所に、まあ先生方の目にもね。例えばもう学校の言わっしゃる事ならもう、いちいち言う事を聞いて。
もうその先生の前にでは素晴らしい生徒が、家に帰ったら手が付けられんと言うともやっぱある訳なんですよ。そういう意味でその、栄四郎の場合なんかはその反対のようです。これはまあ教えて頂いてそんな事を言うてはいけませんけれども、結局先生自身がもっと高めて下さって、子供達から矢張り憧れの念を持たれる位の先生になって頂く以外にはないですよと、まあ信心で言うなら言いたい所ですけれどもね。
まあそんな事は申し上げれませんから、まあ感じたんですけれど。栄四郎もその事をやっぱりお父さん、教会で家庭でのようになら学校でも忠実であらなければいけない事を、まあ言うて聞かせにゃならんと思ってますが。ならこれがなら一度皆さんの場合、いわゆる御信者の場合にそれを持って行きますとです、これと?同じ事が言える。もう親先生の前ではあんなに素晴らしいけれども、一度そこを外れると、もう信者同士であってもその軽く見ると言うか、いわゆる実意丁寧神信心が出けていないと。
家庭に帰ったらもう愈々崩れておると。是では矢張り私が見た目であの生徒は良い生徒だけれども、家に帰っての事が分からない先生の様にです、ね、それと反対であってもいけない。そこん所をです私共信心でです、ね。矢張り学校でも良いなら家庭でも良いと言う様な生き方。信心とても同じ事。お広前で行動しておると言うか、お広前での実意丁寧さというものを、そのまま社会にも家庭にも持って行かなければです。
私は本当な事になって来ないんだというような事を、今日感じたんですけどね。皆さんどんなでしょうかそれぞれ、家のお父さん家のお母さんは、もうほんな教会でばっかりはむごうやらっしゃるばってから、家帰ったらいかんと言ったような、その事を子供達からでも周囲からでも聞いたり、また感じられたりするような事はないだろうかと。本当に言うならば裏も表も同じという生き方と。ね、
いわゆる実意丁寧神信心というのは、ね。神信心の「ほっときだけは?」、その実意丁寧であっても、ね、家庭に帰って、実意丁寧を失うたら、私は本当のおかげにならん。これは不思議なくらいにおかげにならんと「お前の?」場合は、やはり追求してみて。そこんところのバランスのとれてない事を、気付かなきゃいけんのじゃないかと思うですね。
どうぞ。